『GROUND』始まり

 ある日、丸山氏と美術談議をしていて、「絵画について自由に語れる場があるといいね」という話になりました。「何か結論を出すとか、否定するとか、肯定するとか、そういうことを目的とする場ではなく」、「絵画の様々な可能性を考える、そういう場にしたい」と。我々5人は、画家として作家活動をしながら、大学で教鞭をとっています。そのため、絵画について考える機会が多く、5人の共通の思いとして、我々自身が制作している作品も含め、新たに生産され続けている現代の絵画が、どのような可能性を持っているのか、また、そこからどのような課題がみえてくるのか、そうしたことを描く人も観る人も共に、思考出来る場を持ちたいと考えるようになりました。

 5人は、小林、額田、丸山が1960年代前半生まれ、高橋が68年、猪狩が75年生まれと15年の幅があります。小林、額田、丸山が本格的に作家活動を始めるのが90年代はじめです。その頃、絵画を取り巻く状況は、絵画の可能性とともに絵画の存在自体を問われることが多くなっていました。その背景としては、情報化社会に移行し、歴史性や過去の様式などに関係無く、様々な価値を組み合わせ制作することが可能になってきた時代で、それら複雑な価値観が、これまで主流であったモダニズム的な考えと合わなくなってきた。つまり、進化論的に絵画というひとつの形式に押し込めて表出するというモダニズム的な表現方法が合わなくなってきたのだと思います。事実、その頃を境に、モダニズム的志向の絵画は一気に影をひそめていきました。そして代わりに、ポストモダン的絵画が増えていきました。
 小林、額田、丸山の3人は、それらの動向を側でみていました。ポストモダン的な絵画を理解することもできました。しかし3人はポストモダン的な考え方を安易に取り入れようとは思いませんでした。また、モダニズム的な考え方も安易に継承しようとも思えませんでした。いずれも何かが足りない、あるいは断定しすぎている、と思ったからです。
 結果として、3人は、「理想的な絵画の在り方とは何か」ということに対し、個人的見解を頼りに、制作を進めて行くようになりました。この「個に従事する」というスタンスを取ることが必然とも思えていました。このスタンスは変ることなく現在まで続いています。その理由のひとつには、価値の多様化によって「基準」のようなものの見極めが難しくなり、そのことへの本能的な対応として「深く個に従事する」というスタンスを選択したのかもしれません。このことは高橋、猪狩にも通じると考えます。従って、5人に共通するのは、「深く個に従事する」というスタンスを持っているところです。

 90年代、絵画の終焉などと言われた時期がありましたが、そもそも、絵画は、表現として終焉するというような形式ではありません。歴史的に、現在に至るまで多くの絵画が作られ、様々な概念や価値観が形成されてきましたが、すべての可能性が出尽くしたとは思いません。今もなお、あらたな価値観が提示され続けています。多様化する絵画の現状を、自作も含め、経験と反省をもって分析していくことは、絵画のこれからの可能性や課題を思考していく上で、必要なことだと考えます。しかし、実践することは、簡単ではありません。
 そこで、我々は、作る人も観る人も一緒になって、絵画を観察し、自覚し、議論する「場」を作りたいと考えました。それが、『GROUND』です。そこで起こる出来事は、絵画の枠に留まらない、いろいろなことを教えてくれるのではないかと、期待しています。

2014年9月1日 額田宣彦(2016年GROUNDカタログ)


第1回 『GROUND』を終えて

 愛知県立芸術大学サテライトギャラリーで、2014年7月30日から8月31日まで行われた第1回GROUND展が終わった。同年の2月に自主企画展をやろうという話になり、展覧会をやったのが7月だから、正味5ヶ月の短い間に話し合いを重ね、GROUNDの理念・人選・グループ名・展覧会の場所などを決め、またフライヤーなども自分たちで制作した。メンバーが住んでいる所も東京・神奈川・愛知と離れていることもあり、連絡はメールや電話のやりとりだけで結局、展覧会が始まる7月30日まで全員で顔を合わせる事は1度もなかった。ただ参加作家の共通した認識としては、GROUNDは展覧会もさることながら、作家どうしが対話をする場所にしようということだった。だから GROUNDに於いては展覧会の度にシンポジュウムなどを開くということが唯一の約束事となった。

  作家が、自身が表現しているメディアに関心を持つのは当たり前のことだと思う。だが僕らは「絵画とは何か」、といったような他のメディアと絵画との違いを容易く求められるとは思ってはいない。

 実際の所、形式的な側面での絵画と彫刻といった差異の追求は没了して久しいし、美術界というコミュニティに存在する絵画は、他のコミュニティに存在する多種多様の事象を飲み込み、受け入れる事によって生成してきたのではないか。云ってしまえば絵画とは明解な形式として線で囲うことのできるものではなく、点線で囲われた領域であり点と点の隙間から多種多様なものが出入りする領域として生きながらえて来たといってもいいように思う。そんな絵画を僕らは直視し、受け入れ、まずは寄り添いながらそこから派生する様々なことについて一つ一つ考えていきたいと思っている。

  僕らは普遍的な絵画について思考(夢想)する。しかしそれは徹底的に個人の中へ降りて行くことからしか生まれない。孤独の熟考は「価値」を作り上げる。しかし価値とは“価値観が違う”という言葉が示す様に、独りよがりなものである。そして価値とは深く垂直へ降りる運動なのだ。ぼくらは一人一人の世界へ降りていきながらも対話を通じて「意味(横への運動へ)」と繋げようと思う。より大きく深い価値に降りて行く為に、「価値」を「意味」に繋げ、「意味」を「物語」へと押し広げられたらと思う。そして個々の価値(点)は絵画という図形を浮かび上がらせてくれるかもしれない。

2014年9月1日 丸山直文 (2016年GROUNDカタログ)


「どうして想像することは必要なんだろう?」

 「GROUNDという展覧会があるんだけど、どうかな?」と丸山君に言われたのは今から2年前の、ちょうど大きな展覧会に向けて準備をしている最中だった。忙しくなるなと思いながらも、「展示と対話を通じ、思考を巡らせて」ということが気になり、作品展示とシンポジウムを同等に位置付けているということも興味深かった。

 ちょうどその頃、それまでは意識的に絵から排除してきた、物語性を孕んだイメージを題材に絵を描くようになっていた。それらをどうすれば絵として成り立たせられるのか、普遍に昇華できるのかをずっと考えていた。絵を描きながら、色々なことを考えるのは日常的なことだが、それらはすべて自分自身の中で完結してしまうか、収まりのつかないことは宙ぶらりんになったまま、どこにもたどり着かないでいる。絵の個人的な問題は、よく絵の話を聞いてくれる妻にもあまり話したことはないし、そういうことは話してはいけないことのように感じていた。

 絵を描くということは、ひとりでアトリエに籠らなければできないことで、実際に制作中はアトリエに籠りきりになる。アトリエでの孤独な時間があるからこそ、他者に繋がる回路を見いだすことができると信じてもいる。だから、どうしてもその間は、できるだけ人と関わらないようにしようと思ってしまう。考え方が堅いといえば堅いのだけれど、それは基本的に今でも変わらない。

 大学に関わりはじめてから、学生を始め、それまで接する機会の少なかった人々と話をするようになり、絵を通して自分の思いを言葉で表していくことの難しさ、大切さ、そして面白さを感じ、対話することの必要性を改めて感じるようになった。アトリエで絵を観て、話をして、考える。観る絵や話す相手次第で、こちらの思考も変化してくる。思いがけない方向に発展することもあるが、相手に送った言葉は自分に返ってくる。自分とは異なる感じ方、考え方に触れ、おのずと自分の絵のことを考えるようになる。それらを思い返し「GROUND」に参加してみようと思った。

 対話を通して思考を巡らせることは、想像することでもあると思う。想像することは、人が健やかに生きていくためには絶対に必要なことで、誰もが持つことのできる能力だが、考えることを怠るとその力は衰えてしまう。

 「どれだけ違うか、どれだけ感性とか価値観とかが違うかを分かっていた方がいい。バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合うのが演劇」1)だと平田オリザは著作の中で主人公に述懐させている。演劇を社会にも人生にも置き換えることができるかもしれないが、バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつ分かり合うには、それぞれがそれぞれを想像することが必要だと思う。見て、話して、考えて、想像する。見えるものをきっかけにして、どれだけ見えないものを見ることができるのかが、想像する力ではないかと思う。

 今回のシンポジウムでは、落語と映画という異なる表現形式を通して、絵画について対話し思考することで「見方を語る」ことを試みる。絵画、落語、映画のどれもが、想像する力を豊かにする表現だと思う。想像することは、ものを見るということに結びついていると思うし、ものをどう見るのかということはどう考えるのかということでもあると思う。それは人それぞれで、見た人の数だけ見方はあると思う。

小林 孝亘 (2016年GROUND2カタログ)
1) 平田オリザ『幕が上がる』(講談社、2012年)p.70


絵がうまくなること

 今回、僕が参加したシンポジウムは、「見方を語る—たとえば映画をみることと、絵画をみること」と題して、それぞれが抽出した映画のシーンと絵画を引用しながら「見方」について話を広げた。映画の方は、比較的すんなりと抽出できたけど、絵画の方は思いのほか大変だった。
 そして、映画も絵も、抽出した理由をすんなりと言葉にすることができなかった。しかも、言葉にできたとしても、「何となく好きなんですよ」とか、「雰囲気が好きなんです」とか、そんな漠然としたものばかりで、困ってしまった。だいたい、でてくる理由がそんなのばっかりだと、今まで見てきたものは、ただ何となく漠然と見ていただけのか… と、ちょっと落ち込んでしまった。

 見方が変化したなと実感したことは、いままで何度かある。最初に見方が変わったのは、美大を出て、1年くらい経ったときで、それは、「絵のことがちょっとわかってきたような気がする」とか、その程度だったと思う。でも、学生のときは「絵って本当にわかんないなぁー」とずーっと思っていたので、自分の中で「わかってきたような気がする」というのは、とても重要な変化で、うれしかった。そのとき、「わかっていたような気」がした絵の事は、本当はちっともわかってなかったけど、自分の絵に対するスタンスが、ちょっとでも変化したこと、それにともなって絵の見方が変化したことは、実感として確実にあった。そして、この捉え方の変化を繰り返していくことが、絵がうまくなっていくということなんだと思っている。

 映画と絵画を比較しながら見方を語るというシンポジウムは、思いのほか良い経験で、漠然としたものばかりだった理由が、対話によって少しだけ具体的に見えてきて、自分の見方について少しだけ整理できた。
 大事なのは、自分の見方が変化していくこと。そして、いろんな人と対話する事。
 最近、ようやく絵を描くための基盤のようなものができた気がしている。
 また、見方が少しずつ変わってきた。

 「上手に描く人間だけが上手に見ることができる」
 そう思う。

猪狩雅則(2017年GROUND2カタログ)


GROUND 2 の手応え

 GROUNDの2回目の展覧会が終わった。
 1回目と同じように作品の展示とシンポジウムを行い、出版物も作った。さらに今回は皆でドローイングも描いた。

 いろんなことがあったけど、僕にとっての一番の盛り上がりは展示の日だった。
 当日、いつもの展示のときと同じように特に期待も緊張もせずに美術館に着いたのだが、すでに設置が完了した小林さんと丸山さんの壁を見たとたん「おぉ、さすが!プロだな〜」と一気にテンションがあがったのだった。
 これ見よがしなところは一切なく、淡々と当たり前のように飾られていながらピリッとした緊張感があった。
 そして「この展覧会はいけるんじゃないの!」と興奮しながら自分の絵を展示した。
 これ見よがしなところは一切なく、淡々と当たり前のように飾られていながらピリッとした緊張感があるように心がけて。
 全部の展示が済んでみても「やっぱりこの展覧会いいんじゃないの!」という気持ちに変わりはなかった。
 地獄だったリミテッドドローイングも、中村さんが選んだエスキースや過去作品の壁もいいアクセントになっていた。

 展示がうまくいくとうれしい。

 そのためにはやっぱりちゃんと絵を描こう。
 それしかないし、それだけでいいやと思ったのでした。

高橋信行(2017年GROUND2カタログ)


「GROUND2 絵画を語る—見方を語る」展によせて

 絵を生み出す活動と美的活動とは同一の活動ではない。画家は両者を「描くこと」と「見ること」という名でそれぞれ区別している。しかし両者は互いにつながり合っているのであって、その仕方は、彼がわれわれに保証してくれているところでは、それぞれが他方を条件として成り立っているのである。上手に描く人間だけが上手に見ることができる。また逆に(もし尋ねられれば画家は同じように断言するだろうが)、上手に見る人間だけが上手に描くことができる。

R.G.コリングウッド「描くことと見ること」より1)



 GROUND結成を聞いて、絵画のグループを今時結成することに驚くと同時に、絵画のために大きな期待も抱いた。多数の小規模な前衛グループが同時に活動することで絵画が活性化していた1930?40年代に思いを馳せたからだ。例えば第二次世界大戦下の1943年、松本竣介、靉光、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、鶴岡政男、寺田政明、大野五郎の8名は「新人画会」を結成した。麻生は「人間として最小限の自己主張をしたいという仲間の気持ちが自然に集まって」2)つくられたと語っている。画風に共通点を見出して出発したグループというよりも、あくまでも表現の自由を守るために結成されたものだった。井上は幾分の謙遜も持って「微量な抵抗意識で結ばれたが、何より靉光の戦時中の諸作が敗戦後に評価されたおかげで私達の意識以上にこれが過大視された」3)と回顧している。3回の展覧会を行い、活動期間は一年半と短かったものの、戦後日本美術の出発を促したグループとしてのみならず、参加した個々の画家たちも確固とした足跡を残している。
 戦時下に新人画会が旗印とした「表現の自由を守る」ことへの切実さは、70余年たって結成されたGROUNDでは、あくまでもひとりひとりの画家が地(ground)を這うように深く個に従事しながら、「絵画の未だみぬ可能性とその在り方を摸索する」ことへと引き継がれている。



 第1回のGROUND展は「絵画を語る—自作を語る」と題して、展覧会とともに自作を通して絵画を語るシンポジウムを行い、制作に対する考え方や絵画観について明らかにした。続く第2回目の本展は「絵画を語る—見方を語る」というテーマづけがなされている。

  「絵なら、一本の線でもひとつの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色はだれが見ても青色です。しかし言葉の文章になると「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。わたしは、ほんとうは文章というものは信用していません。」4)というのは熊谷守一(1880?1977)91歳の言葉だ。さらに「私は言葉を恐れており、だからこそ作品を描くのです」5)と、自らのことやその絵画について語ることに慎重だったイタリアの画家ジョルジュ・モランディ(1890?1964)の言葉を待つまでもなく、もしも自作を完璧に語り尽くす画家がいたら、その人はもはや画家とも言えないだろう。言葉では掬い切れない部分を描くのが画家だからだ。だからこそ、時には目くらましをされてしまう画家の言葉には抗すことができない魅力があるのかもしれない。
 イギリスの哲学者であり歴史家でもあるR.G.コリングウッド(1881?1943)の冒頭で引いた文章は、「描くこと」と「見ること」は分ち難く、上手に描く人間(画家)だけが上手に見ることができ、上手に見る人間だけが上手に描くことができるとする。この場合あくまで「描くこと」と「見ること」なのであって、「描くこと」と「言葉にすること」ではないことを確認する必要があるだろう。
 コリングウッドは先の文章のように結論づける前に「君がその画題を描いているのは他の人間[将来の機会の君自身を含めて]にひとつの美的体験、描くのとは無関係に当の画題そのものを眺めるだけで完全に君の手に入っている美的経験を、味わうことができるようにさせるためなのか?それとも、君がその画題を描いているのは、描かなければその経験自体が自分の心の中ではっきりとしたかたちをとるまで成長してこないからなのか?」6)と問い、どんな芸術家も後者だと自答する。さらに「描いた経験、それも上手に描いた経験を持つ人間でなければ、現に自分の見ているものが、描く作業の進むにつれて画題から見えてくるようになってくるものに比べていかに貧しいか、ということはわからない。」7)と語る。
 ここでは、ふたつのことが語られていることに気づくだろう。ひとつは、画家は人に見せるために描いているのではなく、自分の経験をはっきりとしたかたちにするために描いているということ。「見せる人」の中に画家自身が入っているのも特筆すべきことだ。もうひとつは、画家は描く作業をすすめてゆくうちに自分が現実に見ているもの(現実の世界)以上のものを描き出すということだ。
 画家の制作活動における「描くこと」と「見ること(世界の見方)」と「現実の世界」との関係について語られているのだが、実際作り手の「世界の見方」は、制作をしない我々にとっては思いがけない発見に満ちている。

3

 「本当に理解するためには、多くのものを見るのではなくて、見えているものを懸命に見ることが必要だ」8)とモランディは言う。対象が限られていてもどこまでそれを深く掘り下げて見ることができるかが重要である、という画家のこの言葉は見事なまでに自作に反映されている。また、「わたしたちが人間として対象世界について見ることのできるあらゆるものは、わたしたちがそれを見て理解するようには実際には存在していない、ということをわたしたちは知っています。」9)という場合の「見ること(世界の見方)」と「現実の世界」との隔たりは、前述した「上手に描いた経験を持つ人間でなければ、現に自分の見ているもの(現実の世界)が、描く作業の進むにつれて画題から見えてくるようになってくるものに比べていかに貧しいか、ということはわからない。」というコリングウッドの言葉へと繋がってゆくのではないだろうか。
 「上手に見ること」を通して描かれたものは「現実の世界」の単なる写し絵ではないのだ。ちなみにコリングウッドは1881年、モランディは1890年生まれと、印象派を経て近代絵画の誕生を迎えてから世紀末を挟んだ、ほぼ同時代のヨーロッパを生きている。さらに先に言葉を引いた熊谷守一も1880年生まれであることが興味深い。
 一見同じようなモティーフを反復しているようでありながら、「自らの主題の選定に境界と制限を課し」10)、僅かな差異を追究して無限の変奏を繰り広げているモランディ。先取性や新しさへの熱狂といった意味での不可塑的な前進ではなく、「遡及性において、過去へと逆転したベンヤミン的な眼差しにおいて」11)捉えられるべきモランディの「アクチュアリティ」は、GROUNDメンバーも自らの制作に照らし合わせて共感するところが多く、ひとつの有効なモデルになり得るだろう。

4

  今回GROUNDに参加することになって、展覧会場の最後の壁面(以下、G壁12))を受け持つことになった。そこで展覧会のテーマでもある「絵画を語る—見方を語る」にそくして、画家の世界に対する見方、自作に対する見方、さらには制作に向かう視点ができるだけ見えてくるような作品を選んだ。制作のヒントにするために描いたもの、過去のドローイング、日常のメモ書きのような写真、制作過程がわかるエスキース、現在とはまったく異なったタイプの過去の作品など、これからも画家が積極的には展示することはないであろうものものである。
 小林孝亘の近作(p.14)は、円形の木立を背景にして、中央に壷やブロックや伏せられた茶碗やコップが描かれている。前景に置かれたものと後景の木立はどちらが主でどちらが従ということはなく、それぞれ存在感を持ちながら渾然一体となってひとつの絵を成り立たせているのだが、木立は中央に置かれたものに意識を集中するとふわりと背後に退くような、ある種書割りのような役割も果たしている。木立を背景にしてさまざまなものを置いてゆくという繰り返しは、小林が今まで「目には見えないものを見せる」ために「意識的に物語性を絵から排除しよう」13)として、描く要素を限定してきたことにも関係があるだろう。
 G壁に展示することになったさまざまな器を描いた小品(挿図1)は、発表を念頭にして描かれたものではなく、作品の次の展開へのヒントにするために描き貯められたいわば「ネタ帖」のようなものである。それらによって、器そのものというよりも、その存在に向けた画家の眼差しを垣間見ることができる。
 対角線を1本だけ描いた《a thick line-F200》(pp.16-17)のように、額田宣彦の絵画は近年ますます要素を最小限に切り詰めたものになってきている。刺繍のクロスステッチをするかのようにカンヴァスの布目を正確に数えながら描いてゆく行為は誤差や偶然性の所産は一切許されなく、自由に描きたいという欲望は制御され、抑制される。それでもなお制御できない部分を明確化してゆくことが課題となっているのだ。布目にひとつずつ筆を入れてゆく、正確に時を刻むかのような行為(過程)とその痕跡である絵画(結果)に向かう時、画画自身も観者も何にもまして意識するのは「時間」であることは間違いない。描き終わるのは予め決められた布目をすべて埋めた時であり、それ以降いかなる加筆をすることもできないのだが、それでも画家は描き終えた後に絵を眺めている十分な時間が必要だと言う。いや、手を加えることができないからこそ、描き終えてもなお持続する一定の時間が必要なのかもしれない。
 G壁に展示されるのは、そんなストイックさからはやや開放されて線の揺らぎを自由に表現したドローイングである(挿図2)。それらを見るとやはりフリーハンドで描くことへの画家のこだわりが看取される。
 「生物の内的な生成の有り方を描こうとしている」14)という20余年前の丸山直文の言葉は、有機的で流動的なものを描くという点で現在まで一貫している。本展出品作である3点の《水辺の風景》(pp.22-25)も含め近年の絵画も、風景の姿を借りながら流動する水や水の流動性をテーマにしたものが多い。滲みやぼかしによって描くステイニングという技法を使って、自分でコントロールしきれない不安定さの中に敢えて身を置いて制作していることは、「流動性」を描くのに相応しいのではないだろうか。むしろ描きたいもののために編み出された技法だったとさえも言える。制御できないということは、描くことが制限されると同時に思いもかけない可能性も孕んでいる。
 G壁では、ふつう見落としがちなさまざまな水溜まりなどを通りがかりにiPhoneで撮影した画像(p.26)や動画をiPadで見せてゆくことによって、水をテーマにした制作へとつながる画家の日常への眼差しを提示する。
 高橋信行は旅行案内のパンフレットや雑誌に掲載されていた写真を見ながら絵を描いてゆくことが多い。既成の写真から構図を借りて、さらりと描いたような線で描くことを信条としていて、その「脱力感」が作品にそこはかとないユーモアを与えている。俳句というよりも諧謔的な川柳の世界に近い。あくまでも「ふつうの絵」にこだわり、「絵はうまくならないようにする」15)とシンポジウムでも明言している。これは、「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手なのはどうなるかわからない。スケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」16)と語り、自分の画風を「下手も絵のうち」と言った熊谷守一に通じる思想ではないだろうか。
 しかし今回出品される《印象:日の入り》と、G壁に展示されるその絵のための3点のエスキース(挿図3)を対比してみると、できるだけさらりと描いたように見える絵は、線の扱いひとつに注目しても、さまざまな試行錯誤の末に生み出されていることがよくわかる。
 猪狩雅則は20年以上も制作を続けているにもかかわらず、「最近ようやく絵画の土俵に立てたのではないかと思える」と少し意外に思えることを語った。以前は使わなかった写真を引用し、前景、中景、後景を描くという法則を自らの中に課したことがそのきっかけになっている。しかし、本展出品作の《雑木林(完成形)》(pp.34-35)をはじめとした猪狩の作品の前景、中景、後景には、いわゆる「主景」となる部分がなく、すべてが平らで等価に見えるのだ。これは画家が前景、中景、後景を遠近の効果を生み出すものというよりも、アニメのセル画のように重ねてゆく画像処理用語でいうレイヤー(層)として考えているからである。
 G壁では、現在のように写真から取った風景ではなく、《creek》(挿図4)といった10年以上前に描かれた空想の中の風景を展示する。それは風景というテーマが同じであるだけで、現在の絵画と一見繋がりが見えてこないが、あえて共通点を見出すとするならば、「空間の切り取り方の大胆さ」とでも言えばよいだろうか。画家が何を残し、何を捨てながら今日に至ったのか、画家の視点の変遷を知る手掛かりになるはずだ。

5

 1995年セゾン美術館では丸山直文も参加している「視ることのアレゴリー 1995:絵画・彫刻の現在」展が開催された。20年以上経て現在そのカタログを繙いてみると、当時の切実な問題が見受けられるし、本展以降の絵画のあり方に確かな一石を投じたはずだ。しかし残念ながらその後の絵画の動向に具体的な影響を与えることもなく、もはやその問いかけすらも忘れ去られたまま放置されていることを痛感する。奇しくも「『現在の美術』とは、「つねに『語りえぬもの』」17)だと本展の開催主旨を記した論考は始まっているが、そこから20年たって「現在の美術」ではなくなった当時の出品作品は、果たして今では正当に語られ得るものになったのだろうか。
 本展は「アヴァンギャルド的な志向を再現(連続)したシンボリックな美術」と「形式と内容が多義的に結節され、複数の解答が内奥に隠された寓意的(アレゴリカル)な美術」18)に大別した上で、後者の作品を取り上げるという主旨の展覧会であった。ただしその場合のアレゴリーとは、西洋の宗教画や神話画に見られる寓意(アレゴリー)ではなく、「作品の構造そのものが、アレゴリカルに組み立てられている」19)ということであり、いわゆる具象、抽象の別は問われない。視る人が一義的に解釈することはできない「言語化しうるような特定の内容を備えた作品ではない」20)と定義されている。どうしても、「正義」を天秤で表すといった抽象的概念を具体化する西洋絵画における寓意(アレゴリー)という概念に囚われて、「アレゴリカル」な構造の絵と言われても釈然としない部分も依然としてあるが、「複数の解答が隠された一義的に解釈することができない絵画」と言い換えるとわかりやすくなるだろう。いずれにせよ見る者にとって簡単に把握できる、いわゆる親切な絵画ではないが、未来を見据えた可能性がある絵画であることがひとつの指標になっていた。また絵画が「アレゴリカル」な構造だというだけではなく、画家自身を含めた見る側もアレゴリカルな絵画の構造を見抜く力が必要だということを「視ることのアレゴリー」という展覧会タイトルが示唆している。
 いずれにせよ、そのような絵画の未来への投げかけを受け取り、次へと引き継ぐ役割を「絵画の未だみぬ可能性とその在り方を摸索する」GROUNDが担っていくことが期待されている。

(中村麗・なかむら うらら・キュレーター)(2016年GROUND2カタログ)



1)R.G.コリングウッド/山崎正和、新田博衛訳「藝術の原理」第14章第2節「描くことと見ること」p.416(『世界の名著 続15 近代の藝術論』中央公論社、1974年)
2)麻生三郎「『新人画会』の今日的意味」p.21(『美術グラフ』第11巻第9号、1962年11月号)
3)井上長三郎「[靉光]帰る」p.21(『三彩』第143号、1961年10月号)
4)熊谷守一(画家の言葉)p.98『熊谷守一画文集』求龍堂、1998年
5)ロレンツァ・セッレーリ/盛本直美訳「モランディ—アトリエの中での冒険」p.19(『ジョルジュ・モランディ—終わりなき変奏』東京新聞、2015年)
6)R.G.コリングウッド 同上p.414
7)同上
8)ジョージ・ヴェッキ/鈴木慈子訳「モランディの印」p.25 上掲図録
9)同上p.28
10)ロレンツァ・セッレーリ、ジョージ・ヴェッキ編「アンソロジー:モランディをめぐる言説」p.154 (ジョゼッペ・ライモンディ「モランディの版画」(1948)より)上掲図録
11)岡田温司「第3章リアリズムと抽象主義のあいだ—モランディの「アクチュアリティ」をめぐって」p.194(『モランディとその時代』人文書院、2003年)
12) 武蔵野美術大学美術館の建築図面上で当壁を表す「G壁」が、本展準備中GROUNDメンバー内での呼称として定着した。
13)小林孝宣「光−存在−時間」p.22(『GROUND 絵画を語る—自作を語る』 GROUND実行委員会、2016年)
14)丸山直文(作家の言葉)p.49(『視ることのアレゴリー 1995:絵画・彫刻の現在』セゾン美術館、1995年)
15)シンポジウム記録よりp.18(『GROUND 絵画を語る—自作を語る』 GROUND実行委員会、2016年)
16)2010年3月NHK教育テレビ『こころの時代〜宗教・人生「モリが見つめた天地」』で放映された熊谷守一95歳の時のインタヴューより
17)杉山悦子「語り得ぬ未知の現象 アレゴリーという名の構造」p.17(『視ることのアレゴリー 1995:絵画・彫刻の現在』セゾン美術館、1995年)
18)同上p.19
19)同上p.20
20)同上p.22